質拾参七十三
それにしても
ベッドに入った寧は今日の和の言葉を思い出す。死んだ人間から自分を殺した相手を聞き出す、もしそんな事が出来れば殺人事件など直ぐに犯人逮捕に繋がるだろう。テレビで降霊術や霊能者番組などやっているのを見ると寧もそんな風に思う事がある。でも実際にそう言った話を聞いた事は無いような気がする。霊の存在は肯定も否定もしない、ただ、寧自身は実際に見た事も感じた事もないので分からない。そしてもし死んだ人間に会えると言われても寧は会いたくない。
亡くなった母に寧の父親は誰なのか、そんな事は尋ねたくもない。そして妹だけが父と母の愛の結晶で、望まれて生まれてきた子などと言われたくない。そんな事を突き付けられたら本当に居場所を失ってしまう、そう思わずにいられない。もしかしたら父はそんな寧の心の内側に気付いているのかも知れない。もし二人が今も生きていたらどうなっていたのだろう、寧は何も知らず普通に幸せに暮らしていたのだろうか。現にあの時迄は何も疑う事なく暮らしていたのだ。あのままあの幸せな日が続いていたのだろうか。もし、そうならとそんな事を何度思ったか知れない。でも実際はどうなっていたか分からない。寧が大きくなるにつれて母は寧の事を疎ましく思ったかもしれない。寧の存在が母の人生を変えてしまったのだから。いつも考えは堂巡りだ、結局何を考えても一緒だ、今の現実が変わるわけではない。ならばあの時、山下から聞いた言葉など忘れてしまえば良いのだ。本当の父親の事など何も知らないままで良いのだ。知っても良い事など何もない、そう思っているのにあの言葉が頭の中から消える事は無い。いつもいつも心の底で囁き続けるおまえは俺の娘だそう言った、山下の言葉\xA4
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あの山下が殺されたと聞いた時、寧は心の底からホッとした。日本に帰る事が決まった日、いつかあの男が寧の目の前に表れるのではないかという不安があった。でももうそれは永久に無くなった。このままそっとしておけば良いのだ、寧は何も知らないまま日を過ごせば良いのだ。そう思っているのに真実を知りたくなってしまう。あの男の言っていた事は事実なのか、そしてあの男は母とどうやって出会ったのか、どうしてあの事件は起きたのか、知らずにいられない自分がいる。全てを知る事が良い事とは限らない事を充分承知しているのに。
その二日後、寧は吉岡の妹にまた出会った。姿を見掛けた時、一瞬ドキッとした。学校から帰ってコンビニに出掛けた帰り道だった。一緒にいたのは吉岡ではなく別の男の子だった、寧は初めて見る顔だ。制服からすると中学生のようである。随分と体格の良い子だ、何かスポーツをやっているのだろうかと思った。二人はマンションの方から歩いてきた。今度は美帆の方が先に寧に気付いたようで寧の顔を見て小さく頭を下げた。
誰?
一緒にいた男の子が美帆に尋ねる。
同じマンションの人
そうなんだ、こんにちは。僕、吉岡俊介です
何だかやけに人懐っこい感じの子だ。
こんにちは、私は紫園寧。吉岡っていう事は美帆ちゃんのお兄ちゃん?って事は吉岡先輩の弟?
兄を知っているんですか?
うーん、そんなに知らないかな。前にマンションで会って少し喋っただけだから
このお姉さんも明星行ってるんだよ
美帆が俊介に説明するように言う。
あ、そうなんだ
でも、私、転校生で、
あ、もしかして帰国子女の人?
うん。そう
前に瑞樹お姉ちゃんから聞いた。帰国子女で明星の後輩の子が同じマンションにいるよって
そうなんだ。藍田先輩は吉岡先輩と仲が良いのね
うん、兄ちゃんの理屈っぽい話を聞けるの瑞樹お姉ちゃんしかいないからね。あ〜あ、でも今日は瑞樹お姉ちゃん来れないんだ
俊介ががっかりしたように溜息を吐く。
藍田先輩来れないと何かあるの?
今日、家政婦さんが田舎に帰っていていないんだ。そういう時、瑞樹お姉ちゃんが来てご飯作ってくれるんだ。家政婦さんの作る物よりずっと美味しいんだよ。でも今日は来れないって言うし、兄ちゃんも大学で研究課題するとかで晩御飯要らないっていうから、ピザでも買いに行こうかと思って。兄ちゃんはきっと瑞樹お姉ちゃんと一緒にどこかで食べて帰るつもりなんだ、狡いだろう
狡いって
だって、美味しい物二人で食べるなんて
そうじゃないと思うよ。お兄ちゃんは人の事気にしないけど瑞樹お姉ちゃんはそんな事ないもん
俊介の言葉に美帆が反論する。
あの、お母さんは?
寧は母親はどうしているのだろうと疑問に思う。
母さんは仕事で遅くなるから、あんまり家の事は出来ないんだ
あ、だから家政婦さんか
うん、じゃあね
そう言ってまた歩き出そうとした俊介を美帆は呼び止める。
あ、あの、良かったら、うちで食べない?
え?
私、こう見えて料理得意なのよ
本当?
俊介は目を輝かせている。
駄目だよ、お兄ちゃん。他所の家にそんな簡単に行ったりしたら。お姉さんのおうちの人吃驚するよ
直ぐ様、乗り気になっている俊介を美帆が窘たしなめる様に口を開く。
うちは大丈夫だよ。どうせ一人だし、今から帰って何か作るつもりだったの
一人なの?お姉さん
うん、うちは父と二人暮らし。でもお父さん、いつも仕事遅いから一緒に食べる事ないの
寧がそう言った時、美帆が一瞬、寧の後ろの方に目線を走らせるようにする。その様子にまた何か見えているのだろうかなどと思ってしまう。
でも、お兄ちゃんすっごく食べるの。きっとお姉さんの家の食材、全部無くなってしまう
おまえな〜
秀介は余計な事を、と言わんばかりに美帆を見る。
あ、じゃ、お姉さんにうちに来て貰えば良い。うちの冷蔵庫は家政婦さんが買った食材が山ほどあるし、それで何か作って貰うって、どうだ?良いアイデアだろう
自慢げに言う俊介に美帆は項垂れる。
でも、家にお姉さんがいなかったらお父さんが帰って来た時、心配すると思うよ
美帆の言葉に俊介は寧の顔を見る。
それは大丈夫。お父さんは心配したりしないから
きっと父は寧が部屋にいない事にも気付かない。帰宅した父が寧の部屋を覗く事など一度もなかった。居てもいなくても父はきっと気にも留めないと寧は思った。
心配、しないの?
美帆が少し悲し気な顔をする。
あ、うん、私、信用されているからね。だから大丈夫なんだ。それにうちの父は帰ってくるの大抵夜中だから、それ迄には帰れるよ
やった!なら、決まりだ
俊介はガッツポーズをする。
じゃ、ピザは中止、否、それも買っておこうか。食後のデザートに
デザートにピザ?
寧は思わず聞き返す。そしてそんな俊介に美帆はげんなりした顔をしている。
質拾肆七十四へ続く