今なお。邪馬台国について考える ( その他政界と政治活動 )

邪馬台国の謎について真面目に考え

始めてから2年近くたった。

それでもなお、九州説は変わらない。

/北九州の近くに本拠地がある/

理由のひとつは、不弥国から先が、

畿内説だと離れすぎている、ということ。

現代なら新幹線でも高速道路でも飛行機でも

すぐに移動できるが、当時、水行30日、

陸行30日も離れたところに有力な拠点を築いておいて、

反乱もなく安定的に支配できるとは考えにくい。

同じ九州に、本拠地である邪馬台国があるのなら

無理が無い。

中国からの使者を伊都国に滞在させ、

卑弥呼と連絡をとり結果を伝える。

それでも本拠地との間を行き来するに要する

日数が多いのは疑問になるが、この日数は

伊都国からの日数ではなく、帯方郡からの

日数と考える。

帯方郡から倭国に至るまでの旅程を、

最初は距離(里)で表し、次に日数で表したもの

と考える。

すると、邪馬台国は水行10日で伊都国に至り、

そこから陸行1月のところにあることになる。

となれば、国の規模から考えれば、やはり、

筑紫平野全体が邪馬台国だったと考えざるを

得ない。

筑紫平野は稲作には適しているが、海洋交易に

適した土地とは言えない。

そのため、朝鮮半島の鉄を運びこんだり、

中国からの使者を受け入れる場所として

北九州に拠点を置くことは自然なことである。

/投馬国はどこになる/

そうなると、今度は投馬国の問題になる。

帯方郡からの距離だとすると、20日の

水行で、伊都国を過ぎてさらに南に向かう。

そして、邪馬台国のような陸行はない。

つまり、九州の南部の沿岸部にあることになる。

投馬国の「投」の字は「殺(サツ)」の草書と

酷似しているという。

これが写し間違いだとすれば、投馬国とは

殺馬国(さつまこく)となり、鹿児島一帯

となる。

ただここに、奴国(福岡)を凌ぐほどの

人口5万世帯を養える平野はあるのだろうか。

難しい。

苦し紛れを言うなら、鹿児島、霧島、志布志

宮崎全部を合わせれば、十分な数になる。

南九州連合をサツマと呼んでいたのではないか。

こう「こじつけて」おけば、とりあえず丸く収まる。

/世帯数の疑問/

海を渡るときの単位は千里。

これは1日の航海で進む距離の目安である。

これより若干短くても、長くても千里と

書かれる。ハンパな500里とかいう

数字は「航海上」は出てこない。

地上を歩いた場合は100里単位となる。

実際には、人間の歩数または日数に

よるものだろう。

50里とかのハンパな数値は出てこない。

投馬国や邪馬台国への時間距離も、大雑把で、

10日単位である。

20日、30日(1月)。

ハンパな5日などという数値は出てこない。

5日程度の誤差は、気象その他の条件で

当然起こりうるという認識だったのかもしれない。

同じように、世帯数にも単位がある。

1000世帯、4000世帯。

奴国はいきなり2万である。

そして投馬国は5万、邪馬台国は7万。

投馬国、邪馬台国のくだりでは1万単位に

なっている。

これは本当に当時、現地の人が数えて

集計した数なのだろうか。

疑問である。

奴国の2万も多すぎるような気がする。

千世帯単位で実数を把握していたのなら、

奴国の世帯数は1万7千世帯、とか、

細かく刻んでもよさそうなのに、2万。

2万、5万、7万という数は、テキトー

なものなのではないだろうか。

千世帯くらいのムラが20個くらいあるので

合計2万、とか。

投馬国や邪馬台国が奴国より大きいのは

確かであり、投馬国よりも邪馬台国のほうが

大きいことも確かなのだが、数がわからないので、

3、5、7のうち、良さそうな数字を2つ使って

5万世帯、7万世帯としているのかもしれない。

そのくらいの「精度」しかないのではないか。

投馬国と邪馬台国の場所を平野部の面積に

よって決めてはみたが、

必ずしも一致しなくてもよいのかもしれない。

ただ、大きさが、奴国<投馬国<邪馬台国

という事実は間違いなくあるだろう。