能登真脇のこと <その10>

 梶木剛の小論「柳田学と折口学」を読むと、柳田と折口は折り合いを付けていたのではなく、柳田が折口に「すり寄った」という衝撃的な結論に至る。柳田と折口を知る者には、梶木の「すり寄った」という表現は著しく適切を欠くものと思うかも知れない。何故なら柳田は折口が終生師表と仰いだ存在というのが通念だからだ。しかし梶木の小論を読むと、この表現の背景には二つ理由がある。一つは戦後のある時点で柳田は折口学を受け入れざるを得ない学問的な状態に直面していたこと。二点目は「すり寄った」と言われても仕方がないほど過去において折口に冷淡だったことである。

 因みに私が想定していた「折り合い」は、柳田が民俗学で目指した実証的学問(柳田学)に限界が生じ、その打開策として折口学が必要であった。つまり柳田の帰納的な思考と折口の演繹的な思考が、ある時点で折り合ったとの解釈であった。ただし、その真の「折り合い」が付くのは戦後以後であろうと言う事は、折口の弟子たちの著書で漠然とした認識をもっていた。梶木の見事なところは、この漠然とした私の認識を、両者の著作を時系列に分析することで答えを出している点である。

 さて梶木の分析を紹介する前に「折り合い」について改めて補足しておきたい。この「折り合い」とは、端的に言えば柳田と折口の「神の観念」と「論考法」の乖離を指してのことである。この重要な学問上の乖離にも拘らず、両者は師弟関係にあり日本民俗学における双璧であった。二人は、この乖離を、どのように克服していたのかという「折り合い」のことである。以下梶木の行った分析を紹介するが、理解を容易にするため、先ず両者の主たる活動を年表に整理しておきたい。

 ❶大正 9年12月〜 柳田:いわゆる「海南小記の旅」

  大正10年 3月    (九州東海岸奄美、沖縄)

 ❷大正10年 7月  折口:大正10、12年に沖縄旅行

  大正12年 9月    (「まれびと」の確信を得る)

 ❸昭和21年 12月  柳田:『祭日考』発表

 ❹昭和22年 6月  柳田:『山宮考』発表

 ❺昭和22年 10月  柳田:小論「折口信夫君と??のこと」

 ❻昭和24年 2月  シンポジウム「日本民族の起源」

           後に江上波夫騎馬民族征服説」

 ❼昭和24年 4月  民族学座談会

           ・1日目(4月16日)

            テーマ「日本人の神と霊魂の観念」

           ・2日目(4月18日)

            テーマ「民俗学から民族学へ」

 ❽昭和25年 11月  柳田:『海神宮考』発表

 ❾昭和27年 5月  柳田:小論「海上の道」

 ❿  〃  10月  折口:小論「民族史観における他界観念」

 ⓫昭和28年 9月  折口信夫 死亡

 ⓬昭和28年11月  柳田:講演「わがとこよびと」(折口追悼会)

 ⓭昭和30年 9月  柳田:小論「根の国の話」

             <伊良子岬>

      愛知県渥美半島の先端にあり、古くは万葉集にも

      詠まれた景勝の地。松尾芭蕉を始め多くの文人

      訪れている。柳田国男明治31年24歳の夏に1

      ヶ月滞在する。この時浜辺に流れ着いた椰子の実

      を見て後の<海上の道>を直感する。

 柳田は大正9年突如退官し、後に「海南小記の旅」と呼ばれる壮大な旅に出る(年表❶)。柳田は若かりし学生時代に渥美半島にある伊良子崎で、岸辺に流れ着いた椰子の実を発見し「日本人の起源は南方にある」と直感したことがある。「海南小記の旅」は、結果的にその思いを深める旅となり、伊良子崎の体験は天啓であったと確信するようになる。梶木はこの確信を<海上の道>と表現している(蛇足になるが島崎藤村の詩『椰子の実』は柳田からこの時の体験を聞いて詠んだものである)。

 折口は柳田の「海南小記の旅」に大いに刺激され、二度にわたる沖縄の旅を敢行し、後の『古代研究』の中核「常世、まれびと論」の構想を得る(❷)。面白いことに柳田が伊良子崎で味わった同様の体験を折口もしている。折口が大阪の中学校教師時代のことで、教え子を引率して行った熊野詣の折、三重県大王崎付近で道に迷う。その時突如眼の前に開けた海を見て「この海の彼方に先祖精霊の世界がある」という直感を得る。後の「常世、まれびと」に繋がる直感であった。

 つまり梶木は。柳田、折口の意識下には過去の体験で得た天啓めいた直感(梶木の言う<海上の道>)があり、沖縄の旅でこの直感を定着させたと見ている。問題はその後の二人の行動にあり、その差が「折り合い」を付けなければならない齟齬を生んだと梶木は述べる。その行動の差とは何か、簡単に言えば柳田は日本民族学の創設に没頭し、折口は、ひたすら「常世、まれびと論」の研究に没頭するという差である。このあたりの柳田の機微を梶木は「自分が発見した<海上の道>の視点を、自分が留守をしている間に折口信夫が独自に開発し、おのれの学問体系を樹立してしまった」と述べ、「知恵の開きの二十何年間」を悔やんでいると述べる。小論❺はこのあたりの柳田の機微を表したもので、この時点で、やがて折口学を受け入れざるを得ないであろうという予感の下に書かれたと梶木は見ている。

 確かに小論❺は、折口の二十数年前の発言(ニホの解釈)を取り上げ、その先見性を認めたもので、それまで見せていた折口への冷淡さはない。その上「我々はどうも始末が悪い。知恵の開きの二十何年間が情けない」、「折口君の早い暗示を受け入れなかったことの後悔を、ひしひしと感じている」と述べ、「人の長所を大きく組織していかなかったことの損失は計り知れない」と珍しく殊勝なのである。つまりこの小論は柳田が指導者として自分の非を認め、折口に詫びを入れているようにとれる。ただ、この小論は書かれた時期が重要で、この一年半後すでに述べたシンポジウムで柳田が折口の「まれびと論」を批判しているからである(❼)。もし梶木の論に難点があるとすれば唯一ここにあるだろう。このことは後述したい。

 さて梶木論の方であるが、柳田が日本民族学の創設に奔走中、折口が代表作『古代研究』を完成させたことは既に述べた。柳田が自説「祖先霊」の論考に着手できるのは戦後になってからであった(❸、❹)。梶木は❸、つまり『祭日考』を執筆中に柳田の脳裏には「<海上の道>の視点がかすかに蘇った」筈だと述べる。祭日とは物忌、忌籠りという祭の要素に稲作が深く関わる。その論考過程でニホ(刈り取った稲、ニオとも)とニフナメ(新嘗)が必然的にテーマとなる。その時かつて折口が小論「稲むらの陰にて」で「ニホとニフナメは関係がある」と予言したことを思い出さない筈がない。この記憶の蘇りが?を生み、同時に<海上の道>の視点も蘇ったと梶木は推測する。

 ならば、その1年半後の座談会(❼の座談会1日目)において、何故柳田が折口の「まれびと」批判をしたのかという疑問が湧いてくる。これに対して梶木は、柳田は当時自説「祖霊神」論考の仕上げ段階にあり、祖霊神と真っ向対立する「まれびと論」は到底受け入れられないものであったこと、また本格的に折口学を受け入れるのは❻の騎馬民族征服説に対する反論(❼の座談会2日目)後のことを述べている。つまり❼の二日目に「ヒステリックな反論」をした手前、その正当性を論証する必要性を自覚、余生を掛けてその作業に当たり生まれたのが晩年の力作『海上の道』である。柳田が折口学受容に傾くのはその過程でなされたと述べている。

 以上、梶木論を要約すると、『祭日考』で折口の過去の予言が蘇りその先見性に驚く、並行して自身の意識下に会った<海上の道>の視点も蘇える(❸❹❺)。ただし自身の神観念に合わない「まれびと論」は未だ認めていない(❼の1日目の折口批判)。その後、騎馬民族征服説が出るにおよんで、その反論(❼の2日目)過程で折口の<海上の道>視点と20数年の時差を越えて同期したことになる。

<つづく>